1910年に併合した朝鮮における映画は1919年に制作された金陶山の『義理的仇討』を嚆矢とした。日本の新派に強い影響を受けた作風は独立後も続き、政府政策による日本主義の追放が叫ばれた後も新派の影響は払拭される事無く、現代に続いている。日本政府は当初、台湾と同じく映画による教育啓蒙を試みた[13]が、自身の手による映画制作の気運が強く、1924年以降、日本人が設立した朝鮮キネマに対抗するかの如く、独立スタジオが林立した。 1926年に羅雲奎が制作した[14]『アリラン』は民族主義の高揚における、重要な役割を果たした。その他、『金色夜叉』の翻案で、李慶孫の『長恨夢』(1926年)や李圭煥が制作した反日的内容の『主なき渡し舟』(1932年)などが話題を呼んだ。また、李明雨によって制作された最初のトーキー映画『春香伝』は1935年に登場して以降何度もリメイクされ、韓国における国民的映画のひとつに発展している。 日本が軍国主義へ傾くにつれ、厳しい検閲が敷かれるようになり朝鮮での映画生産は減少していき、1940年には日本と同じく映画法が実施されるに至った。1942年には全ての映画会社が閉鎖され、朝鮮総督府による朝映が設立された。この時代は主に日本人監督が現地のスタッフを使用して映画を制作する、というスタイルが主となり、日夏英太郎[15]の『君と僕』(1941年)、豊田四郎の『若き姿』(1943年)、今井正の『望楼の決死隊』(1943年)などが公開された。 1945年、植民地支配が終わると共に自国映画制作が再開され、崔寅奎の『自由万歳』(1946年)を皮切りに反日映画のラッシュが続いた。その後、韓国においては1998年まで日本映画は公式には一切上映されなかった。 李香蘭日本が1932年に建国した満州国では、1936年に満州映画協会(満映)が設立され、映画制作が執り行われた。満映では日本の文化啓蒙を目的とした映画と一般の劇映画が制作され、一部は日本に持ち込まれるなどした。1940年に『支那の夜』に登場した李香蘭はその美貌と歌唱力、演技力などで一躍スターとなった。 1942年ごろより、自由な映画制作を求め、木村荘十二や内田吐夢など日本人映画監督が次々と渡満してくる。全編がロシア語で構成された島津保次郎の『私の鶯』(1943年)など、自由闊達な映画が企画・制作された。 1945年に満州国が崩壊すると満映の施設はソビエト連邦に接収され、満映スタッフは日本や台湾、香港へと散り散りに去っていった。日本では根岸寛一やマキノ光男などによりこうした満映引揚者が迎え入れられ、後の東映の基礎を形作った。 上海では1910年代より中国映画の制作地としてその名が知られており、1937年に日本による占領が始まると、日本軍はその映画管理を川喜多長政に要請した。 川喜多は1939年、上海の映画会社を併合し、中華電影を設立した。作品としては満映との合作で制作された李香蘭主演の『萬世流芳』(1943年)などがある。 1945年、FX が敗戦した後は上海で日本人と共に映画制作を行っていた中国人監督の大部分が香港へ亡命し、後の香港における映画産業発展の礎となった。 インドネシアでは現地人による映画撮影が禁止され、日本軍による啓蒙映画が主に制作された。また、日本軍の捕虜虐待を隠蔽する目的でいくつかの偽ドキュメンタリー映画が制作されるなどした。 有名なものとしては1944年に日夏英太郎がジャカルタで制作した『Calling Australia』があり、オーストラリア人捕虜が撮影した映像として連合国軍側へ送付された[16]。 今井正『青い山脈』(杉葉子と原節子)1945年、日本が第二次世界大戦に敗北すると、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による日本統治が開始された。日本で制作される映画はGHQの下部組織CIE(民間情報教育局)によって管理されることとなった。この管理体制は1952年まで続き、日本映画界において、初めて外国機関による管理と制御が実施された特異な期間となった。企画と脚本段階で英語に翻訳し、CIEで許可されたもののみ制作がなされ[17]、完成したフィルムはCCD(民間検閲支隊)により二度目の検閲が行われた[18]。 また、占領政策の一環として戦争責任の問題は映画業界にも波及し、戦時中の映画制作において戦争協力者を追放すべしとの声が叫ばれ始めると、川喜多長政、根岸寛一、城戸四郎といった戦意高揚映画に携わった人物が1947年に映画界追放とされた。しかし他のジャンルにおける追求と同じく、映画業界においても戦争責任の所在は曖昧に処理され、上記の処置は1950年には解除されている。 戦後、最初に公開された映画は佐々木康による『外為 』で、並木路子による主題歌『リンゴの唄』が大ヒットした。 CIEのデヴィッド・コンデによって1945年に発布された制作禁止リストにおいて、国家主義や愛国主義、自殺や仇討ち、残忍な暴力映画などが禁止項目となり、時代劇の制作は事実上不可能となった。この影響で時代劇を生業としていた俳優は現代劇に出演するようになる。片岡千恵蔵の『多羅尾伴内』、阪東妻三郎の『破れ太鼓』、稲垣浩の『手をつなぐ子等』、伊藤大輔の『王将』などがそれにあたる。 また、GHQ主導で勧められた民主主義礼讃作品としてプロパガンダ映画が多数制作された。その中で黒澤明の『わが青春に悔なし』(1946年)、吉村公三郎の『安城家の舞踏会』(1947年)、今井正の『青い山脈』などに出演した原節子は西洋的な新時代の幕開けを象徴するスターとして国民的な人気を博した。佐々木康の『はたちの青春』(1946年)では日本映画最初のキスシーンが撮られた。 『二十四の瞳』(1954年)1951年にサンフランシスコ講和条約が締結されると、翌年にGHQによる映画検閲が廃止となる。これにより上映禁止となっていた時代劇が復活するとともに、多数の映画が制作されるようになった。国際映画際において黒澤明や溝口健二らの日本映画作品が次々と受賞し、日本の文化的矜持の回復に務めた。また、1958年には映画人口が11億人を突破するなど、映画は娯楽の殿堂として不動の存在となるとともに、映画産業における第二の黄金時代が到来することとなった。 GHQによって制限されていた外国為替 が制作されはじめ、関川秀雄の『きけ わだつみのこえ』(1950年)、今井正の『ひめゆりの塔』(1953年)、木下恵介の『二十四の瞳』(1954年)、市川崑の『ビルマの竪琴』(1956年)など、戦争を単純悪と捉えた作品ではなく、戦争体験の悲壮さや感傷的回顧を目的とした作品が次々と登場し、社会的影響となった。その他、『戦艦大和』や『太平洋の鷲』といったノスタルジア映画も量産された。こうした中で嵐寛寿郎が明治天皇を演じた『明治天皇と日露大戦争』(1957年)といった作品までもが登場した。神聖にして犯すべかざるとされた天皇の商品化という、戦前には考えられなかった事態であった。 『7人の侍』(1954年)映画の国際的評価も上昇し、1951年に黒澤明が『羅生門』でヴェネツィア国際映画祭グランプリを受賞したのを皮切りに、溝口健二が1952年『西鶴一代女』、1953年『雨月物語』、1954年『山椒大夫』と、3年連続で受賞した。1954年はほかに黒澤の『7人の侍』もヴェネツィア国際映画祭を受賞、カンヌ国際映画祭において衣笠貞之助の『地獄門』がグランプリを受賞するなど、極東の国から届けられたフィルムに世界中が驚嘆した。