松竹では1969年より開始された山田洋次による『男はつらいよ』のシリーズ化により国民的人気を勝ち取る事となった。このシリーズは30年近く、48本の映画が制作され、1983年、「世界最長の映画シリーズ」としてギネスブックに登録されている。 日活ロマンポルノ 日活の転進はそれまで所属していた大物俳優や監督との訣別を意味した。例えば小林旭や渡哲也は東映へ、宍戸錠はテレビへと活躍の場を求めている。逆に今まで機会のなかった新人監督や俳優が次々と出現し、業界の停滞期において、唯一といっていい人材育成の場所となった。日活ロマンポルノは1988年まで週に2本というペースで制作がなされ、神代辰巳、田中登、小沼勝、池田敏春、中原俊、黒沢直輔、金子修介といった多数の人材を輩出している。 東映 学生運動の衰退に伴い、東映の任侠モノは色あせた映画と評されるようになった。一方で深作欣二の仁義なき戦いシリーズや伊藤俊也の女囚さそりシリーズ、内藤誠の不良番長シリーズなどが人気を博し、「実録路線モノ」などと呼ばれた。仁義なき戦いシリーズに続きトラック野郎シリーズに出演した菅原文太はここでも人気を呼び、日本映画界を代表するスターとなった。 1980年になると従来のスタジオシステムは崩壊し、大手が大作映画を全国の専属劇場で同時公開するという方式が成り立たなくなった。日活は1978年に社名を「にっかつ」に、1988年に「ロッポニカ」に変更し、ロマンポルノ路線からの脱皮を図ったが、うまく立ち行くことはできなかった。松竹の『FX はつらいよ』のようなドル箱を持たなかった東宝や東映は前売り券の自転車操業的な経営に追い込まれる事となった。 新人監督という面でみれば、多大な貢献を果たしていたのは日活で、石井隆、那須博之、根岸吉太郎、森田芳光といった監督が日活より巣立っている。また、個人制作映画から原一男や高嶺剛といった個性的な監督が登場したのもこの頃である。80年代終盤になると有名人を映画監督に担ぎ出す動きが相次ぎ、ミュージシャンや俳優から作家、画家などあらゆるジャンルの監督が出現したが、二作目のメガホンをとったのは北野武、坂東玉三郎、竹中直人などごく僅かであった。 一方、1970年代に沈黙してきた巨匠の復帰作品というものも見られ、代表的なものとしては黒澤明の『影武者』(1980年)、『乱』(1985年)、『夢』(1990年)や鈴木清順の『ツィゴイネルワイゼン』(1980年)、『陽炎座』(1981年)、『夢二』(1991年)や吉田喜重の『人間の約束』(1986年)、松本俊夫の『ドグラ・マグラ』(1988年)などがある。 ジャパニメーションの発展 日本のアニメーションは1958年の『白蛇伝』を嚆矢とすると先立って記述した。その後の手塚治虫や1977年の舛田利雄の『宇宙戦艦ヤマト』をとっても、子供を対象にしたアニメーションという枠を出ることはなかったが、大人をアニメの世界に巻き込むという意味で、宮崎駿の出現はその概念を根底から覆すほどの影響を持っていた。1984年に公開された劇場用アニメ映画『風の谷のナウシカ』、1988年の『となりのトトロ』は、幅広い世代の支持を得て大ヒットを記録した。 北野武シネマコンプレックスが日本に定着した1990年代は、長期恒常的な不景気のあおりを受けつつも、1994年、長らく減少を続けていた映画館数がようやく増加の傾向に切り替わった。1960年から30年、全ての数値で減少し続けていた映画業界において、わずかながらではあるが、回復の兆しが見え始めた時期であるといえる。メディアミックスの動きが活発になり、漫画、テレビアニメ、コンピューターゲームなどと連動した映画作品が増加した。不動産 委員会方式によるリスク分散の手法が一般化し、テレビ制作会社の映画事業参入が増加。2000年代の邦画復活の布石となった。 また、1950年来遠ざかっていた国際映画祭の話題もいくつか出現し、1997年、今村昌平の『うなぎ』がカンヌ映画祭のグランプリを、河瀬直美の『萌の朱雀』がカメラ・ドールを獲得した。ヴェネツィア映画祭では北野武の『HANA-BI』が金獅子賞を獲得し、マス・メディアにおいて「日本映画のルネッサンス」という標語まで誕生した。興行面においても周防正行の『Shall we ダンス?』などがアメリカをはじめとする諸国で成功を収めた。国内においても1997年に宮崎駿の『もののけ姫』が記録的なヒットとなるなど、明るい話題が続いた。 近年、多チャンネル時代を迎える中で、海外の映画監督の評価もあり、日本独自の映像表現が見直されるようになった。特に、ジャパニーズホラーとも呼ばれるホラー映画が海外でも脚光を浴び、呪怨などがハリウッドでもリメイクされるようになる。同時に、低迷する日本映画を支える動きが起こりつつある。その成果があったのか、2006年は21年ぶりに邦画の興業収入が洋画の興業収入を上回った(日本映画製作者連盟)。だがこれも、洋画の興業収入の低迷によるという一面がある。 また、テレビ局が出資した外為 のCMを自局で大量に流し、情報番組などで煽っているという裏があり、それに比例し、テレビ局の口出しが増え、映画の自主性が薄れているとされる[20]。もっとも、これらの傾向は低迷していた80年代以来続いていたことであり、そういったメディア展開は必ずしも興行収入増加を約束するものではないという見方もある。 また、タレントや流行の単発芸人など話題性によるその場的な利用についても、特に日本は欧米と違い、タレントがCMからお笑い、ドラマや映画まで出演しているため出演者の個性が脳裏に焼きついて“映画”として見られないという声もある。 放送法でテレビ局は番組以外の商品は、宣伝が自由にできるので制作してはならないという決まりがあるが、将来自局で流す映画のコマーシャルは放送法に違反しないため問題はないので、上記で挙げた過剰な宣伝はモラルの問題とされる[20]。 確かに、以前より日本映画が盛り上がってきているのは事実ではある。日本映画の制作本数は増加しており、2006年の公開作品総数は821本(1955年以降で最高)、スクリーン数は3062(対前年比136増。3000を超えたのは1970年以来)、入場者数は計1億6427万人余であった(日本映画製作者連盟)。しかし同時に公開の目処の立たない長篇映画どころか、DVD化もされない作品も多く、そう云った作品は年間100本以上とも、3本に1本とも云われており、それらは「不良債権映画」とも云われている。 公共団体による映画支援の動き 2001年11月16日、文化芸術振興基本法が衆議院に提出され、同月30日衆参で可決した。法律の公布・施行は同年12月7日。 この法律のメディア芸術の振興の項目(第9条)で、映画を含んだメディア芸術の製作・上映支援などのために必要な施策を講じることが明記され、これと連動する形で第35条で地方公共団体によるバックアップも明記された。 このことを受け、文化庁は地域振興と結びつく映画製作について助成することを打ち出し、各地方公共団体はフィルム・コミッションなどの設立・運営、および当該組織を通じての映画製作の誘致などを始めている。 さらに、『眠る男』(群馬県)や『船を降りたら彼女の島』(愛媛県)などのように、地方公共団体が「補助金」「寄付」などではなく、映画に対して直接出資する例も見られるようになっている。 現在のところ、これらの動きはいわゆる「ご当地映画」製作へと結びつく傾向があるが、まだ始まったばかりであり、今後の展開が期待される。