ヒューマン 派遣社員の心得

本登録へ

天文15年(1546年)3月1日、南部家の第22代当主・南部政康の次男・石川高信の庶長子として岩手郡一方井で生まれる。 はじめ従兄弟である南部氏第24代当主・南部晴政に男子が無かったため、その娘を正室として養嗣子として迎えられた。しかし元亀元年(1570年)、晴政に実子・南部晴継が誕生すると、次第に晴政から疎まれるようになり、本人も身の危険を感じていたのか、天正4年(1576年)に正室が早世すると養嗣子の座を辞退し、田子城に引き籠もった。 天正10年(1582年)、晴政が死んで晴継が第25代当主を継承した。しかし同年、晴継は謎の暴漢集団によって暗殺されている。これには信直の暗殺説も囁かれている。更に近年では信直によって内戦が引き起こされた結果、晴政親子が攻め滅ぼされたという説も浮上しているが、真偽のほどは不明である。 晴継の後継として一族の九戸政実の弟・実親を推す意見もあったが、南長義や北信愛から支持された信直が、南部氏第26代当主を継承することとなった。このため九戸政実は遺恨を抱き、家中は不穏な状態であった。 天正14年(1586年)、高水寺斯波氏の当主・斯波詮直を滅ぼして勢力を拡大した。天正15年(1587年)には北信愛を名代にして加賀の前田利家に対し、豊臣政権に臣従する意思を示している。天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣して所領は安堵された。しかし、津軽と外ヶ浜を奪い取って自立した津軽為信を謀反人とする旨の訴えは棄却されてしまった。小田原征伐後、秀吉が奥州仕置で奥州に遠征した際、浅野長政と共に先鋒を務めた。 天正19年(1591年)、家臣の九戸政実が反乱を起こすと、秀吉の援軍を得て鎮圧し、政実や九戸実親ら謀反人を処刑している。天正20年(1592年)からの朝鮮出兵では、秀吉に従って肥前名護屋城に参陣したが、朝鮮に渡海せずして帰国を許されている。 肥前より帰国後は、領内の基盤固めに専念した。特に盛岡に居城を築城し始めている。慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、徳川家康に接近する。慶長4年(1599年)、盛岡城が完成したため、盛岡に居城を移すが、10月5日に盛岡で病死した。享年54。 後を長男の南部利直が継いだ。 明応4年(1495年)、南部家第22代当主・南部政康の次男として三戸城で生まれる。 智勇を兼ね備えた名将で、兄の南部安信から絶大な信任を受け、石川城にて津軽地方の政治を任された。安信の後を継いだ甥・南部晴政の時代になってもそのエステサロン は変わらず、重用された。若年で家督を継いだ晴政をよく補佐して助けたといわれる。 永禄12年(1569年)には南部領である鹿角郡に侵攻してきた安東愛季の軍勢を破り、元亀3年(1572年)には津軽で起こった反乱を鎮圧するという大功を立てている。 高信の没年ははっきりしていないが、南部氏の津軽支配はこの高信の才能によるところが大きかったため、彼の死後、南部氏は津軽支配にまで力が及ばなくなり、津軽為信によって津軽を奪われることになってしまったのである。 高信は安信の弟、晴政のレーシック 説が定説化している。しかし、南部氏の系図の中で最も古い系図は、寛永18年(1641年)に幕府へ上呈された『寛永諸家系図伝』所収の南部系図である。『寛永諸家系図伝』には信直は晴政の子・晴継と従弟とされており、つまり高信と晴政は兄弟である。その後に作成された南部氏系図は、いずれも高信を晴政の弟としている。この系図を持ってすれば、子である信直・政信ら二人の生年も納得出来る(安信の弟では、当時としては余りの高齢で子供が出来ている為) 時代が下って寛政11年(1799年)に南部氏が幕府へ上呈した『寛政重修諸家譜』所収の南部系図では、高信は晴政の父安信の弟としている。この流れを受けて作られた『南部史要』『祐清私記』『聞老遺事』『南部根元記』などが広く一般に普及したために、晴政弟説が流行したと考えられる。 高信は没年がはっきりしていない。民間記録である『永禄日記』は、元亀2年(1571年)5月5日に津軽為信の奇襲を受けて石川城で自刃したと伝えている。しかし、三戸南部の資料ではこの時には死なずに生き延びて、天正9年(1581年)に世を去ったとも伝えているのである。 大浦氏の出自には様々な説や伝承があるが、南部一族の豪族であるという説が最も有力である。為信の経歴は津軽氏側に残される資料と、三戸南部氏側の資料との間で記述に食い違いがあるため、はっきりしない点が少なくない。 為信が、南部氏の一族であったという見方は南部氏側の資料に古くから存在する。この見方を補強する資料が津軽家文書の中にもある。その文書は豊臣秀吉から送られたもので、宛名は「南部右京亮(なんぶうきょうのすけ)」とあり、これは為信に宛てられたものであると推定されている。これは大浦氏が三戸氏、八戸氏等と同様に南部氏の一族であったと推定される。 永禄10年(1567年)、大浦為則の養子となり、大浦氏を継ぐ。元亀2年(1571年)(天正9年(1581年)説もある)、5月、突如として南部信直の実父石川高信を攻めた(このとき、高信を自害に追い込んだというが、高信は生き延びていたという説もある)。 その後、浪岡御所北畠顕村の浪岡城を攻め落とすなど、為信は天正16年(1588年)頃には津軽一帯と外ヶ浜占領に成功し、天正18年(1590年)には豊臣秀吉の小田原征伐に参陣して、秀吉より所領を安堵された。この時為信の本領安堵を認めるように仲介したのは石田三成である(豊臣秀吉が南部右京亮=為信に宛てた朱印状などの証拠による)[1]。南部氏は為信を惣無事令に違反する謀反人として秀吉に訴えたが、為信は豊臣秀次を介して秀吉に鷹を献上するなどしてその歓心を得ていたため、罪に問われなかったという。ただし、惣無事令違反を問われ、石高4万5千石のうち、1万5千石を太閤蔵入地とされたと推定する研究もある。 この頃に、「大浦」から「津軽」に改姓している。また、大浦政信が近衛尚通の落胤だという伝承にちなみ、元関白近衛前久の猶子となり、本姓を藤原とした。 その後は九戸政実の乱の討伐や文禄・慶長の役、伏見城普請などに功績を挙げた。文禄3年(1594年)には大浦城から堀越城へ居城を移している。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは領国の周囲がすべて東軍という状況から三男の信枚と共に、東軍として参加した。しかし、嫡男の信建(烏帽子親は石田三成)は豊臣秀頼の小姓衆として大坂城にあり、西軍が壊滅すると三成の子石田重成らを連れて帰国している。これらを考えると、つまりは美容整形 と同様の、両軍生き残り策を狙ったとも考えられる。そのためか戦後の行賞では上野に2000石加増に留まった。(上野領については満天姫・辰姫の項目参照)。関ヶ原の合戦中、国許では家臣反乱が起こり、居城を占拠されたが、西軍敗戦の報が伝わると反乱方は戦意喪失の上で追討されている。 津軽為信の銅像その後も家中騒動にて城が占拠されたりなどしたため、慶長8年(1603年)には岩木川と土淵川に挟まれた高岡(鷹岡)に新城を着工した(のちに弘前と改名、城は弘前城と呼ばれる)。ただし、城の視力回復 はあまり進まず、次代の信枚の代に引き継がれた。 慶長12年(1607年)12月に京都で死去。享年58。 父の名代を務めるなど次代として確実視されていた嫡男の信建は、同年10月、父に先立ち死去していた。為信の跡は三男・信枚(次男も既に死亡)が継いだものの、翌年信建の嫡男熊千代(大熊)が津軽建広ら信建派の家臣に推されて為信の正嫡を主張し、幕府に裁定を求めるお家騒動が勃発する(津軽騒動)。幕府は信枚を正嫡として公認し、建広らは追放されお家騒動は収まった。