墓所は弘前市藤代にある革秀寺にあり、国の重要文化財に指定されている。また、弘前市西茂森長勝寺に木像が安置されている。 あご鬚が長く垂れていたので「髭殿」と呼ばれた。これは為信が三国志の関羽にあこがれての私淑であったとされている。 弘前城東門近くの弘前文化センター正面入口前には、津軽為信の銅像がある。戦前までは弘前城本丸にあったが、戦時中の金属供出により撤去され、2004年に今の位置に復元された。 嫡男信建が京で病に倒れた際、津軽にいた為信は、自身も病に陥っていたにもかかわらず、信枚を伴って京まで見舞いに訪れ、そのまま同地で没している。親子兄弟の最期の別れがしたかったから、という見解もあるが、信建が診察を受けていた名医に自分も診てもらいたかったからと言う説もある。いずれにせよその年の10月に信建は在京のまま死去し、その二ヵ月後に為信も京で死去した。 新田開発や漆の栽培など、民政にも大きく力を注いだ。 九戸政実は武将としての器量に優れており、九戸氏は政実の代に勢力を大幅に広げ、M&A 氏宗家に匹敵する勢力を築いた。その立場は南部氏宗家から自立した大名ではなく、その家臣三戸南部氏の家臣であったと一般には認識されている。しかしながら、中央の室町幕府の認識はあくまでも独立した大名であり、南部氏と共同歩調を取っている勢力として九戸氏を見ている。事実1563年に足利義輝が室町幕府諸役人の名前を書き出た資料の中にも南部晴政と並んで九戸政実が記入されている。 以上のことから、九戸氏と南部氏の関係は、従来言われるような主従関係ではなく、国人同士の対等同盟というべきであろう(例:武田氏と小山田氏)。 1569年、南部晴政の要請により、安東愛季が侵略した鹿角郡の奪取などに協力し、その勢力を拡大している。そして斯波氏の侵攻に際しても石川高信の支援を行い、講和に貢献した。 1582年、南部晴政が病死すると南部氏は晴政の養子・信直と実子・晴継の後継者を巡る激しい家督争いが始まる。晴政の跡は、実子の晴継が継いだが、父の葬儀の終了後、三戸城に帰城する際に暗殺されてしまう(病死説有り)。 急遽南部一族や重臣が一堂に会し大評定が行われた。後継者としては、南部晴政の養嗣子でもあった南部信直と、一族で最有力勢力の九戸政実の弟で、南部晴政の娘婿である九戸実親が候補に挙げられた。評定では九戸実親を推す空気が強かったが、北信愛が事前に八戸政栄を調略し、結局は南部信直が後継者に決定する。 政実としては、恩有る南部宗家を晴継暗殺の容疑者である南部信直が継いだことに大きな不満を抱き、自領へと帰還する。 1586年には信直に対して自身がCFD 家の当主であると公然と自称するようになる。 このような政実の姿勢は1590年の豊臣秀吉の「奥州仕置」後も変化はなく、ついには1591年1月、南部氏の正月参賀を拒絶し、同年3月に5千人の兵力をもって挙兵した。もともと南部家の精鋭であった九戸勢は強く、更に南部信直は、家中の争いでは勝利しても恩賞はないと考える家臣の日和見もあり苦戦する。そしてとうとう自力での九戸政実討伐を諦め、豊臣秀吉に使者を送り、九戸討伐を要請するに至る。 秀吉の命令に従い豊臣秀次を総大将とし蒲生氏郷や浅野長政、石田三成を主力とする九戸討伐軍が奥州への進軍を開始し、出羽国から小野寺義道・戸沢政盛・秋田実季、さらに津軽からは大浦為信が参陣し、九戸討伐軍の兵力は6万人を上回った。 同年9月1日、九戸討伐軍は九戸氏所領への攻撃を開始する。怒涛の勢いで迫る討伐軍は翌9月2日に九戸政実・実親の籠る九戸城も包囲攻撃を開始。善戦した九戸政実であったが、勝てないと悟り抗戦を諦めると、4日に出家姿で九戸討伐軍に降伏した。 豊臣秀次の陣へと引き出された九戸政実・実親兄弟らは死を覚悟しており従容として斬首された。そして女子供を含む九戸一族もことごとく斬殺され、九戸氏は滅亡したのである。 小野寺 景道(おのでら かげみち、1534年(天文3年) − 1597年(慶長2年))は、戦国時代出羽国の武将。小野寺氏第十三代当主。小野寺稙道の四男。名は小野寺輝道(てるみち)ともいう。 少年時代、父が横手城主大和田光盛、金沢八幡別当・金乗坊らに殺されて居城・横手城が奪われたこともあったが(平城の乱)、景道は庄内の大道寺氏に保護され、数年後に勢力を盛り返し、光盛、金乗坊を滅ぼし横手城を奪い返した。その後もさらに勢力を拡大して小野寺氏の最盛期を築き上げ、安東氏や戸沢氏、消費者金融 らと対峙した。 上洛して織田信長と会見したこともある。会見して帰国した後、子の小野寺義道に家督を譲って隠居した。 長く分裂していた檜山系と湊系の安東氏を統一し、安東氏の戦国大名化を成し遂げた智勇に優れた人物であったと言われている。統一経緯には諸説があり不詳であるが、婚姻関係と養子縁組とにより檜山系が湊家を事実上吸収したものと推測されている。更に半ば独立勢力であった国人の浅利則祐を討って、その弟の浅利勝頼を傘下に置いて勢力を拡大した。1564年(永禄7年)から南部領に侵攻し鹿角郡獲得を目論むが、これは1569年(永禄12年)に石川高信に阻まれた。 領土経営に関しては、従来、湊家が低率の住宅ローン を支払うことを条件に認めてきた雄物川上流域の大名、国人による湊における交易を統制することにより、旧来の蝦夷地貿易などの外海交易に加え河川交易への統制強化(江戸時代においても、庄内藩が最上川流域・秋田藩が雄物川流域に対し津料制を柱とする河川交易統制を敷き、内陸諸藩の主要問題となっていた)を断行しつつ、土崎港を改修して北日本最大の港湾都市に育て上げた。また、近隣国人衆への支配も強化しようとした。 このため1570年(元亀元年)には、豊島玄蕃らによる湊騒動が起こり、豊島氏に同調した大宝寺氏も由利郡へ進軍してきた。この一連の紛争は、大宝寺義氏の自壊にも助けられて安東家の優勢に終わり、由利郡の大半は安東愛季の勢力下となった。このとき安東家の軍勢は、三崎山を越えて酒田まで侵攻したと云われる。 また、1573年(天正元年)から1582年(天正10年)まで織田信長に毎年の貢物を贈ることで誼を通じ、信長の死後は羽柴秀吉と誼を通じるなど、中央権力とも連絡を密にしており、1577年8月6日(天正5年7月22日)には従五位下に、1580年9月21日(天正8年8月13日)には従五位上侍従となるなど、安東氏の最盛期を築き上げたとも伝えられている。また、晩年には名字を安東から秋田へと改めている。 更に比内地方の浅利則祐の弟勝頼を、蠣崎慶広を使い謀殺。出羽北部の沿岸部をほぼ統一し、内陸部に進出し雄物川流域の支配権を巡り戸沢氏との戦いに向かったが、1587年(天正15年)、角館城主戸沢盛安と戦った際、仙北淀川の陣中で病死した。 ルイス・フロイスの1565年(永禄8年)2月28日付け書簡には、「日本の極北にて、都より約三百リーグを隔つる所に一大国あり、野獣の皮を着、全身多毛、髪髭頗る長き蛮人之に住す。(中略)蝦夷に近きゲスエン地方に秋田という大市あり。彼等は多数此市に来りて貿易し、秋田人も亦時々蝦夷に赴く」とあり、代々蝦夷との交易を管理してきた檜山系安東氏として、湊系との統一後も北方交易を行っていることが分かる。