ヒューマン 派遣社員の心得

担当者と面談

文武に秀で、秋田郡・檜山郡・由利郡などを版図に収めて羽後(出羽北半)最大の大名となった彼は、「斗星(北斗七星)の北天に在るにさも似たり」と評された。 1578年、病弱な兄戸沢盛重にかわって、13歳の若さで家督を相続する。智勇に優れた将で、『鬼九郎』或いは『夜叉九郎』の異名を取り、その武勇を恐れられたという。現に、戦いで盛安は総大将ながら常に陣頭に立って、単騎で敵勢の中に突っ込むという荒武者であった。しかし、捕虜の兵士は斬らずに逃がしたといい、優しい側面もあった。 この頃の戸沢氏は16代当主道盛からの家臣団の掌握、領国経営の安定化も実り、18代盛安は隣国の大大名・南部氏の影響から脱するために勢力拡大に奔走した。 やがて北浦郡を平定した盛安は、1586年の阿気野の合戦で、盟友・楢岡氏の手引きによって上浦郡沼館城へ進軍し勝利。敵将・小清水蔵人を両断したとの逸話も残る。こうして小野寺氏を破り上浦郡へ進出し、翌年には唐松野合戦で秋田氏を破って淀川城を奪回するなど、現在の秋田県の角館地方を中心に確固たる勢力基盤を築き上げた。 さらに、1579年には織田信長に鷹と名馬を送って誼を通じ、1590年の豊臣秀吉の小田原征伐にわずか九騎ながらも参陣して、北浦郡4万4千石の所領を安堵されるという優秀な外交能力で戸沢氏の最盛期と安泰をもたらした。しかし、盛安は小田原征伐に参陣中に病死した。 嫡男政盛は4歳だったため、弟の光盛に家督を譲ることを秀吉に託したという。しかしその弟光盛も朝鮮出兵後、17歳で病死することとなる。 葛西 晴信(かさい はるのぶ、天文3年(1534年) − 慶長2年(1597年)?)は葛西晴胤の子。葛西氏の第十七代当主。 伊達氏と手を結んでたびたび大崎氏と戦った。また、外交的にも1569年に上洛して時の天下人・織田信長に謁見して所領を安堵されている。しかし大崎氏との抗争に明け暮れた晴信は、1590年の豊臣秀吉の小田原征伐に参陣できず、改易されている。これにより、葛西氏は滅亡したのである。 晴信の死にはSEO 説があり、詳しくわかっていない。一説には、改易後に諸国を流浪して、最終的に加賀で1597年に死去したという説がある。また、『葛西真記録』によれば、秀吉の奥州平定軍に対して徹底抗戦したが衆寡敵せず、寺池城もしくは佐沼城で戦死したという説もある。 晴信は一般的に暗愚な武将といわれているが、大崎氏との戦いでは常に勝利しており、外交的にも織田信長と謁見し、所領は30万石という広大な支配領を築き上げたところを見ても、戦国武将としてそれなりの器量は有していたと思われる。しかし、晴信をはじめとする歴代の当主が一族内の内紛や大崎氏との抗争に明け暮れ、それが葛西氏の衰退を招いたことも事実であり、いわばこの抗争が、葛西氏滅亡の遠因となったのである。 斯波 詮高(しば あきたか)は、室町時代後期から戦国時代にかけての戦国大名。高水寺斯波家の当主。『続群書類従』「奥州斯波系図」では斯波詮好。兵部大輔。 斯波詮高 凡例 そもそも高水寺斯波家は、室町幕府管領家斯波氏の一族で、「斯波御所」、「奥の斯波殿」と呼ばれ、高い家格を誇る名族である。 『続群書類従』に拠れば、父は斯波詮重。ただ、詮重の事跡は伝わっていない。また、実父は大崎教兼といい、斯波詮重の女婿ともされている。 詮高は文明8年(1476年)に生まれた。詮高の「高」は、『続群書類従』に於ける曽祖父・斯波詮教、祖父・斯波詮勝同様、将軍・足利義高の偏諱に拠るものか。 このモバイルSEO は謀略に優れ、雫石に勢力を誇る戸沢氏を攻略し、戸沢氏を雫石から放逐し、嫡男の斯波経詮を後継者とし、雫石城攻略後に次男・雫石詮貞を雫石城に入れ、さらに雫石領内の猪去館に三男の猪去詮高を入れるなどして、家中の結束を固め、高水寺斯波家の全盛期を築き上げた。 天文18年(1549年)に死去。享年74。後を嫡男の経詮が継いだ。 本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系・河内源氏の流れを汲む足利一門・斯波氏の血筋で、最上氏は奥州探題の大崎氏の庶流。大崎氏はもともと斯波氏を名乗っており、次男斯波兼頼が羽州探題として最上郡(今の村山郡)に入部し最上氏を名乗るようになった。 関ヶ原の戦いにおいて東軍につき、最上家を57万石の大大名に成長させて全盛期を築き上げたが、彼の死後に最上家が改易されてしまったため、残された史料は少ない。さらにその多くが対立していた伊達家のものであること、検証不足の史料により成立した通説が多いため、注意を要する。 天文15年(1546年)1月1日、第10代当主・最上義守と母・小野氏(永浦尼)との間に長男として生まれる。幼名は白寿、通称は源五郎。 白寿誕生より遡ること三十余年の永正11年(1514年)、最上氏第9代義定は、長谷堂城における戦いで伊達稙宗に大敗した。稙宗の妹を義定の正室とすることを条件に両者は和議を結んだ。永正17年(1520年)には義定が僅か29歳で急死し、一時山形城まで占領されるほどであった。 義定には子がなかったため、最上氏は一族の中野義守を養子に迎える。伊達氏は最上家を傀儡化しようとしたが、最上一族が団結し抵抗したため果たせず、大永2年(1522年)、義守は最上家を継いだ。義守は最上家領内の復興に努め、天文11年(1542年)に伊達稙宗と伊達晴宗との父子の間に天文の乱が発生すると、稙宗に属して伊達領に出兵し長井を制圧し、独立を果たした。 白寿は永禄3年(1560年、永禄元年説あり)に15歳で元服し、将軍・足利義輝より「義」の字を賜り義光と名乗った。この年3月、父の寒河江城攻めに随って初陣を飾っている。義守はこの寒河江攻めで戦果をあげることができず領土の拡張を断念した。伊達家のくびきからも完全に脱したとは言えず、最上氏の権威は失墜していた。 そんな中、義光は文武両道に秀でた青年に育ちつつあった。16歳の時には横浜 マンション で盗賊を撃退し、その勇猛さを証明している。また、永禄6年(1563年)に義守・義光父子は上洛し将軍・義輝に拝謁しており、その道中の安全と武運長久を祈り義光の母・永浦尼が刺繍した「文殊菩薩騎獅像」が近年再発見された。 永禄7年(1564年)頃には義光の妹・義姫(のちの保春院)が伊達輝宗に嫁ぎ、永禄10年(1567年)、長男・梵天丸(後の伊達政宗)を生む。この婚姻はのちの両家に大きな影響を与えることとなる。 義光が長じるにしたがって、父の義守は義光を嫌い父子同士が相争うようになった(天正最上の乱)。これに関しては、義守が伊達氏に父子和解を報告する書状が残っている。なぜ父子が対立したかについては原因がはっきりしていないが、父が伊達寄りの立場であったのに対して義光が伊達のくびきから脱する意志があったという立場の違いを考慮せねばなるまい。また、義光排斥を目指していたのは、義守のみではなかったことから、最上家再興を目指す義光に対する伊達家と義守の危惧や、周辺諸侯の反発があったことは否定できない。これらのことを考慮すれば、従来よく言われてきた義守と義光の個人的・感情的憎悪という理由のみでこのことを考えることはできない。 元亀元年(1570年)5月、対立していた最上父子は和解したと伝わる。翌元亀2年(1571年)、父・義守は下炬語を受け「栄林」と号し禅門に入り、その後は政治に関与しなかった。こうして義光は家督を相続した。 なお、義守と義光はその後も険悪な仲で、義守は死ぬまで政権奪回を狙っていたとする俗説があるが事実ではない。義光は義守重病の際には名僧を呼び祈祷を行い、葬儀は小田原参陣直前ながらも盛大に行うなど、孝を尽くしている。 従来は、義光の家督継承を巡る騒動として、以下のような挿話が『事実』として語られていた。 『義守が義光を嫌い、弟の中野義時を偏愛したため、ついに義守は義光を廃嫡し、義時に家督を譲ろうとしたため、義光は義守や義時と対立し、義光は味方となるのは近臣だけという苦しい立場に立たされた。重臣・氏家定直の調停により、元亀元年(1570年)8月(1571年8月説もあり)に義守は隠居し、義光が家督を継ぐという形で争いは終息したものの、定直死後再び両派は家督をめぐって抗争は再発、隠居していた義守も義時に味方し、家臣団も分裂、さらに陸奥から伊達輝宗が舅の義守に味方して出兵してくるなど、その抗争は激化した。しかし義光は防戦に努め、逆に一族・家臣団の粛清・統制を行ない、天正2年(1574年)に中野城 (出羽国)を攻略し弟の義時を自害させた』 この骨肉の争いは大正時代以降の書籍で大々的に取り上げられ、今では義光を語る上では欠かせないものとなっている。しかし、これらの話は史実とするには根拠が十分ではないと指摘されている。 まず、江戸時代初期に最上氏が改易がされたため、最上氏の史料が少ない。そのため、軍記物や他家の史料に拠らざるをえない。 しかし、江戸時代初期に成立したとされる軍記物である『最上記』『奥羽永慶軍記』などには中野義時は登場しない。また、同時代史料として重視される(敵方といえる)伊達・上杉の文書はおろか、『治家記録』のような編纂物にもその名は出てこない。義時の名は18世紀末に編纂された『稽補出羽国風土略記』において初めて登場する。家系図においてもその名が確認できないものの方が多い。 また、家督相続を願って義光が永禄13年(1570年)正月に山寺立石寺に捧げた願文を家督相続紛糾の根拠とするが、これは内容・用語・形式ともに願文の様式を呈していない。 これらの事実を重ねてみると、この逸話が創作であると見るほうが自然である。 参照 - 長谷勘三郎「歴史館だよりNo.12/研究余滴5」 義光が家督相続をした際、最上氏支族の天童氏、東根氏、蔵増氏、上山氏、若木氏らは素直に従わず、四面楚歌の状態であった。当時、最上氏は義守によってかろうじて独立したものの、それ以前には伊達の属国であったため威信は地に堕ち、一族の結束はすでに崩壊していた。そのため、これらの一族等は各地で独自に領国を形成し従おうとしなかったのである。たとえば天童頼貞は「今更義光に従う謂われはない」と言い放ったという。