当主となった義光は出羽統一に踏み出すが、このような不利な状況で武力を用いた戦いを仕掛けることには無理があった。義光は家中法度の整備など、まずは内政から取りかかった。天正五年(1577年)には一月遅れで織田信長に謁見し「最上出羽守」に任じられたという文書が近年発見されており、まずは中央と交渉し権威を持とうとしたことがわかる(新発見書状より、山形新聞・平成6年3月4日朝刊記事)。こうして足場を固め、攻勢に転じた義光は、謀略・説得・降伏勧告・敵陣営分裂といった手段を用いて攻略をすすめていく。 天正5年(1577年)、義光は為替 を目指すも決着せず、城主・天童頼貞の女を義光の側室とすることで和睦を結んだ。 天正6年(1578年)、上山城主・上山満兼は伊達輝宗と連合して最上領に侵攻した。義光は粘り強く防衛につとめ攻城戦から野戦に持ち込むと、敵陣に鉄砲隊で集団射撃を加え連合軍に手痛い打撃を与えた。浮き足立つ輝宗の陣に、兄の危機を察した妹・義姫が陣中を駕籠で突っ切り参じ、両者を説得して和議を結ばせた(柏木山の戦い)。義光はこれ以来、満兼に対して強い警戒心を抱くようになった。 天正7年(1579年)8月、義光は重病に罹っていたらしく湯殿山で祈願を行っている。 天正8年(1580年)、義光は宿敵である上山城主・上山満兼の重臣・里見民部少輔に誘いをかける。この機に義光は、民部少輔に満兼を裏切り内応すれば上山2万1千石をそのまま与えると約束する。それに乗った民部少輔は兄の里見内蔵助を斬殺し、満兼を討ち取り上山城を占拠した。 村山郡を征圧した義光は、小野寺氏が支配する最上郡攻略を目指した。天正9年(1581年)、早春、尾花沢で「馬揃え」を大々的に行う。[要出典]これには村山郡だけではなく最上郡の国人衆も大挙して集った。こうして最上の力を見せつけることで、戦わずして国人を支配下に置き、かつ敵味方の区別をつけた。この馬揃えに出馬しなかった小国城主・細川直元に対し、義光は出兵した。細川直元の裏を掻き、山刀伐峠を越えて細川領に攻め入った。慌てて軍を返した細川直元は万騎の原で敗れ、小国城は落城し滅ぼされた。夏には小野寺氏の重臣で鮭延城主・鮭延秀綱に調略を仕掛け、秀綱を降伏させ最上郡も制圧する。秀綱は本領を安堵され、義光の重要な家臣となった。 天正10年(1582年)、三男・義親を産んだ天童御前が病死したため、天童氏との和睦は白紙に戻った。 天正11年(1583年)、庄内の大宝寺義氏が外貨預金 攻めを計画する。しかし、義光は事前に大宝寺家臣の前森筑前を内応させており、前森筑前は逆に義氏を急襲した。不意を突かれた義氏はなすすべも無く自刃し、義光は庄内進出の一歩を踏み出した。 天正12年(1584年)、谷地城主の白鳥長久の勢力伸長が義光にとって目に余るものとなってきていた。長久は無断で羽州探題を名乗って織田信長と親交を深めていた。この状況を危惧した義光は、嫡子・義康と長久の娘を婚約させることで懐柔しようとしたが、長久は応じなかった。義光は一計を講じ、病で重体であると偽り長久を山形城に招き、自ら斬殺した。しかし谷地城の遺臣たちは降伏を潔しとせず、義光は軍を派遣して落城させた。このあとすぐに、義光は長久と連合していた寒河江城主・大江高基に狙いを定める。高基の先代である大江兼広は、男子がなかったため義光の嫡男・義康に跡を継がせる約束をしていたが、これを反故にして吉川高基を後継者にすえており、義光の不興を買っていた。高基は白鳥氏の旧臣と糾合して防戦した。高基の弟・羽柴勘十郎の奮戦に苦しんだ義光は、陣を引いたと見せかけて勘十郎を誘い込み、伏兵の鉄砲射撃により射殺した。高基は逃走して切腹した。こうして寒河江大江氏は滅んだ。 同年、父・頼貞の跡を継いだ、天童頼久を攻めるも、天童氏と盟約を結ぶ延沢満延の奮戦で最上軍は敗退する。満延の武勇に感嘆した義光は、延沢満延の嫡男・延沢康光に二女・松尾姫を嫁がせることで、寝返らせることに成功する。以降、延沢満延は義光の最も信頼の厚い重臣の一人として活躍する。満延の寝返りを機に「天童八楯」と称された一団は崩壊し、天童氏と同族にあたる東根氏の東根頼景に対しては、家老・里見源右衛門を調略し内応させて内側から東根城を切り崩すことで勝利をおさめた。こうして追い詰められた天童頼久は伊達氏を頼って落ち延びた。 天正14年(1586年)、小野寺義道と有屋峠で戦う。緒戦は敗北するも、嫡男・義康と楯岡満茂らがよく反撃し、小野寺勢を撃退することに成功した。 天正15年(1587年)、大宝寺義氏の弟・大宝寺義興(上杉家家臣本庄氏出身)が上杉景勝に接近を図っているという情報を知った義光は、素早く義興を攻撃、自刃させた。また、義興の養子・大宝寺義勝を追放した。 天正16年(1588年)2月、伊達政宗は1万の軍勢で大崎義隆を攻撃した(大崎合戦、大崎氏は義光の正室の実家)。それに対し義光は援軍5,000を派遣、伊達軍を破ったが、妹・義姫(保春院)の懇願によって和睦した。また、伊達政宗が山形に侵攻した時これを迎え撃つ姿勢を取ったが、伊達家との決戦の直前義姫が突然戦場に現れ、両者を驚かせた。義姫は自分の兄(最上義光)と息子(伊達政宗)、つまり伯父と甥の骨肉の争いを見るに偲びず、両者の和解のために両軍の間に自分の乗った駕籠を置かせた。義光と政宗は再三戦場から立ち退くよう要求したが、義姫は応じず、結局両者は戦うことなく和議を結んで撤退した。このとき、最上勢が動けないと判断した大宝寺義勝の実父・本庄繁長が大軍を率いて庄内に進軍する。義光も派兵するが、十五里ヶ原の戦いで最上軍は大敗し、庄内地方は上杉氏に奪われた。その後も上杉軍との戦いは続いたが、上杉家の重臣・直江兼続が石田三成経由で豊臣秀吉に接近、義光は対抗して徳川家康を通じて交渉にあたるも、外交戦に敗れ庄内地方は上杉領として公認された。これ以後も、義光と家康の友好関係は続き、最終的には関ヶ原の対上杉戦、さらには江戸幕府の領地加増につながる。 天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣し、宇都宮城にて夫人と秀吉に拝謁し本領24万石の安堵を受けた。この時、義光は直前に没した父・義守の葬儀のため甥・政宗よりさらに遅参しているが、事前に徳川家康と交渉していた成果もあり、咎めはなかった。奥州仕置の際、仙北で起きた大規模な一揆に乗じて仙北に出兵し、小野寺領の雄勝郡(上浦郡の一部)を領有した。 なお小田原参陣前、妹・義姫を利用し政宗毒殺をもくろんでいたとされることがあるが、荒唐無稽な謬説と考えた方が自然である(義姫参照)。 天正19年(1591年)頃から、義光は株 との接近を強めており、家康が九戸政実討伐に来た際には次男・家親を、諸大名にさきがけて徳川家の小姓として差し出している。この討伐に同行していた豊臣秀次が山形城に立ち寄った際、三女・駒姫の美貌に目をつけ、義光に側室に差し出すよう執拗に迫った(山形城に秀次は立ち寄らず、美貌の噂を聞いて迫ったという説もある)。義光は断ったが、度重なる要求に屈ししぶしぶ娘を差し出すこととなった。駒姫の成長を待って欲しいというのが、彼のせめてもの抵抗であった。また、三男・義親を秀吉に仕えさせ、最上家の安泰をはかった。 一方で秀吉とその側近たちとは波長が合わなかったようである。奥羽で撫で斬りも辞さない過酷な検地を行う秀吉に義光は不快感を抱き、一方で緩やかな検地を行う義光を秀吉側は相手と通じているのではないかと疑った[要出典]。 天正20年(1592年)、朝鮮出兵に備えて肥前名護屋に滞陣するも、渡海はせずに済んだ。2月、京都の連歌師たちは、連歌会に義光より発句をもらうことにしていた。義光はこれに答え、のちに畑谷城で奮戦する江口光清を使者として、京まで句を届けている。また、この年より山形城の改築に取り組み始めた。 文禄3年(1594年)、小野寺義道の忠臣・八柏道為に偽の書状を送る。この計略にはまった義道は道為を成敗した。その後、義道は義光相手に連敗し関ヶ原の戦いでは西軍に味方し、戦後改易された。 文禄4年(1595年)、豊臣秀次が謀叛の疑いで切腹させられ、その際、義光の娘の駒姫が京三条河原で15歳の若さで、事件に連座し処刑された。一説ではこのとき駒姫はIPO 的な側室ではなかったという。義光は必死で助命嘆願をしたが間に合わなかった。義光夫妻の悲嘆は激しく、悲報を聞いた義光は数日間食事をとることもままならず、駒姫の生母・大崎氏はまもなく駒姫の後を追うように死亡している。 義光は秀吉の不興をかい、さらに伊達政宗らとともに秀次への荷担を疑われ謹慎処分を受ける。このとき、父の無事を息子・義康と家親が祈願していることからも、相当追い詰められた義光の立場がわかる。この処分は間もなく解けたが、義光と最上家臣団は秀吉への不信感と敵意を募らせたとみられる。後の関ヶ原の戦いで東軍方についたのも、この件が影響しているという説もある。これ以来、慶長の大地震の直後に秀吉ではなく家康の護衛に駆けつける、秀吉から茶に招かれた家康の護衛を自発的にする等、徳川方への傾斜をますます強めていく。