慶長3年(1598年)、会津領主蒲生家で幼君蒲生秀行が家臣団の争いを押さえられずに転封された(蒲生騒動)。もともと蒲生氏は、奥羽諸大名の監視と関東の徳川家康牽制のために秀吉により送り込まれていた。秀吉は家臣の争いも治められない幼君の蒲生氏の代わりに、上杉景勝を越後から転封させた。これは義光にとっては非常な脅威となった。景勝とは庄内地方を巡り激しく争ってきた経緯があり、さらに最上領は西と南から上杉領に挟まれてしまうこととなる。逆に景勝からみると、会津と庄内の間を最上領により分断されることになり、両者の衝突は避けられない状態となった。 慶長5年(1600年)、家庭教師 は会津の上杉景勝が軍備を増強していることを詰問する。上杉家の重臣・直江兼続はこれに対して絶縁状ともいえる直江状で返答した。これを受けた家康は同年6月、家康は会津征伐を開始した。義光ら奥羽の諸将は東軍(徳川方)に味方し、米沢城攻撃のため最上領内に集結していった。しかし、家康が会津征伐に赴いている最中に、上杉氏と昵懇であった石田三成らが、反家康を名目にして上方で挙兵する。家康はこれを知ると会津攻撃を中止し、義光、伊達政宗、結城秀康らに上杉景勝の牽制を命じ上方に引き返した。 これを受け、奥羽諸将は最上領内から引き上げ始め、中でも領内で一揆が発生した南部利直は、急ぎ引き返した。一方で政宗は孤立を警戒し上杉勢と講和を結ぶ。義光は東軍につく決意を固めていたが、上杉領と接している家臣団はこれに反対し、義光も圧倒的不利を悟り、嫡子・義康を人質に出すことを条件に上杉勢と講和をはかった。しかし、義光が秋田実季(東軍)と結び上杉領を攻める形跡を上杉側に知られたため講和は成立しなかった。こうして最上家は完全に孤立した状態で、上杉家と対峙することとなった。 上杉景勝は直江兼続に2万〜2万4千余の軍勢を預け、最上領「山形県内陸部の山形盆地」侵攻を開始した。これに対抗する最上義光軍は7,000余(実際は小野寺義道を牽制するため庄内に出兵していたため、さらに少なく3,000余)でしかなかったが、上杉軍に対して最上義光は2,000挺もの鉄砲を駆使して抗戦した。 わずか350名の最上兵が駐屯する畑谷城の守将・江口光清は、兵力集中のため撤退するようにという義光の命令を無視し籠城した。光清の器量を惜しんだデザイン会社 は「降伏すれば名誉ある処置をとる」と勧告したが、光清はこれを拒否し抗戦した。光清父子に率いられた守兵はよく持ちこたえ、上杉軍に1,000名に近い死傷者を出す損害を与えるも、衆寡敵せずまもなく全滅、畑谷城は陥落した。続いて上杉軍は山形城の要である長谷堂城を攻撃するが、守将・志村光安率いる1,000名は上杉勢相手によく城を守り、敵将・上泉泰綱を討ち取るなど多くの戦果を挙げた。他にも上山城・里見民部、湯沢城・楯岡満茂ら最上勢の守将は善戦し、上杉勢・小野寺勢相手に城を守り抜いた(慶長出羽合戦)。 義光は嫡子・義康を派遣し、甥・伊達政宗に援軍を要請した。この頃政宗は、南部利直が最上領に援軍として向かったことを知ると、和賀家・忠親を煽動し一揆を起こさせ領土拡大を狙っていた。政宗は留守政景率いる約3,000の援軍を派遣したが、最上領で戦局を見守るに留まった。一説によれば、政宗は重臣片倉景綱から「山形城が落城するまで傍観し、疲弊した上杉勢を討ち、漁夫の利を得るべし」との献策を受けていたが、母・義姫が山形城内にいることを考慮しその策を却下したといわれている。 9月29日、上杉軍は関ヶ原の戦いの敗報を聞いて長谷堂城の包囲を解き、米沢城に退却した。西軍敗戦の報を聞いた義光は、家臣・堀喜吽の制止に「大将が退却してどうやって敵を防ぐのか!」と反論し、先頭に立って上杉勢に追いすがった。しかし、敵の一斉射撃に襲われ、堀喜吽は戦死し、義光自身も兜に被弾してしまう。結局、最上軍はあと一歩のところで兼続を取り逃がしてしまった。兼続の退き際の見事さには、敵である義光も賞賛を惜しまなかったという。 上杉軍が退却し、和平交渉へ向けて動いている間に最上勢は逃げ遅れた上杉勢を素早く追撃した。こうして短期間のうちに上杉領の庄内地方・由利郡を奪取し、勢いに乗り小野寺氏の横手城攻略にまで成功した。 義光は上杉軍を撃退した功により、攻め取った庄内地方などを加えられ、上杉領である置賜郡を除く現在の山形県全土と由利郡(佐竹氏との領土交換により、当初所有していた雄勝郡・平鹿郡と引き換えた)計57万石を領し、出羽山形藩の初代藩主となった。また、秋田実季が東軍を裏切ったとして訴え、移封させた。 江戸幕府成立以降、藩政の確立に尽力した。看護師 求人 は居城である山形城の大改築を行い、国内有数の広さの平城に拡張した。また、自らの隠居所として大宝寺城を鶴岡城と改称し、改築にも着手した。義光は人材や築城技術においても全国各地からすぐれたものを取り入れようと取り組んでおり、こうした技術は山形城の構築、最上川開削等に反映されている。義光は山形城下においては免税措置を行った。地子銭、年貢を免除し間口四間半あるいは五間、奥行三十間を基本とした125坪から150坪の土地を分け与えた。職人たちは諸役と人足役も免除した「御免町」で優遇した。職人の中には家臣並の待遇を受けたものもおり、特に城下建設に必要であった大工は手厚い保護を受けた。当時の町数は31、町屋敷は 2,319軒半で人口19,796人であった。これに家臣団を加えると人口は3万人を超えた。 商人町としては、羽州街道沿いに「市日」のつく区画を整備した。南から五日町、八日町、十日町、七日町、六日町、四日町、さらには脇の二日町、笹谷街道沿いの三日町にも市が立ったということは、一と九を除く毎日どこかで市があったということがうかがえる。商業にも力を入れ、近江商人をはじめ外来の商人の出入りの自由も許した。職人も募集し、職人町として桶町、檜物町、銀町、塗師町、蝋燭町、材木町を創った。 交易品の流通路となる街道の整備に取り組み、山形から庄内への道と、寒河江経由で庄内に出る街道を大改修した。これらの道は大変狭く、悪天候下では危険極まりなく、冬期間は通行不能となっていたためである。また、水運路である最上川の三難所も開削し、舟運の安全を図った。こうして近畿との交易を活発化し、出羽の特産物を全国にテレマーケティング させた。「西の堺、東の酒田」とよばれた酒田港発展の基礎は義光時代に築かれたのである。 義光は治水工事を積極的に推進した。慶長11年(1606年)からは赤川の治水を行い、家臣に命じ因幡堰、中川堰、青龍寺川といった疏水を開削した。これにより鶴岡を洪水から守り、用水問題を解決した。 最も大規模な治水事業は、北楯大学堰である。最上川左岸地域は、平坦だが水利が悪く雑木林と草原広がり、細々と田を耕す民がまばらにいるだけだった。狩川城主・北楯利長はこれを憂い、十年間地道な調査を行った。彼は立谷沢川の水を平野にひくことで数千ヘクタールにも及ぶ土地を潅漑しようという計画し、義光に願書を提出した。しかし近代的な技術もない当時は実現は難しく、重臣たちは評定でこぞって反対した。利長はあきらめずに義光に直訴するが義光も即答せず、石井若狭という土木技術に優れた家臣に改めて調査を命じたところ、成功の見込みがあると報告されたため開発を許可した。このとき庄内一円から集められた人夫は7,400名に及んだ。「三年以内に開発できねば、切腹する」と宣言した利長の決意にうたれた義光は、利長の命に背く者は即刻懲罰に処すと各城主に厳命した。工事は慶長17年(1612年)夏から始まり、翌年秋までに全長12kmにおよぶ大水路が完成した。義光は利長に300石を加増し、この用水で開拓される新田が何万石に達しようと、利長の知行として取らせるという証書を下した。さらに頭巾を賜り、「庄内末世の重宝を致し置き候」と述べその功績を絶賛した。この工事の結果庄内の石高は上昇し、これより20年の間に18ヶ村が増えた。こうして完成した北楯大堰は、現在に至るまで農業生産に大きく寄与している。