最上家は代々宗教の保護に取り組んでおり、義光もまた信仰心があつかった。愛用の指揮棒に「清和天皇末葉山形出羽守有髪僧義光」と刻していたことからもそのことがよくわかる。義光は領土拡大と藩政確立に伴い、寺社の建立と保護を行った。最上山専称寺、立石寺、羽黒山、義光山常念寺(嫡子義康の菩提寺)などは義光時代に建てられた寺である。山形一の伽藍を持つ専称寺は、非業の死を遂げた愛娘・駒姫と妻を供養するためのものだといわれ、山形城内から駒姫の居室が移築された。境内には義光が参拝するときに馬を繋いだという伝説のある「駒つなぎの桜」が残されている。 義光の政策の特色として、家臣の厚遇があげられる。俸禄4万5千石を最高に1万石以上の家臣が14〜18名に達していた。家臣の知行割りをあわせると、合計66万石以上であった。「最上百万石」というFX は、知行割りを合計すると百万石を超えたためと言われている。この家臣優遇策は、彼の代まではその求心力で保たれていたが、結果的に最上崩壊の一因となる。 文化面では一花堂乗阿、山本宗佐らを領内に招いている。一花堂乗阿は慶長8年(1603年)、光明寺の住職として招請しており、彼が領内に至ると義光自ら迎え、さらには置き場所に困るほど扶持米を届け乗阿を感激させた。。義光は文化の保護と移入に取り組んでおり、文学を家臣等にも熱心に奨励した。こうして山形城下に、華麗な桃山文化が花開いた。 繁栄を誇っていた最上家に、暗い影を落とす事件が起こった。義光と嫡男・義康は当初良好な関係であったが、家臣の讒言によっていつの間にか険悪なものとなっていた。このことは、家親に家督を継がせたい幕府や、それを利用せんとした家臣の思惑も絡んでいたと言われている。そんな中、慶長8年(1603年、1611年説もあり)、義康が何者か(重臣里見民部の家臣(義光の陪臣)原八右衛門か?)によって暗殺された。この事件については未だ詳細は不明であり、義光の意向によるものとされることもあるが、家臣たちの単独犯行説もありはっきりしない(最上義康参照)。 家康は、義光が近侍させていた次男・最上家親をことのほか気に入っており、義康廃嫡は家康の意向を受けてとのことだとも言われている。この事件は、義光の最上氏の安泰を計った思いが結果として裏目に出てしまったものといえる。義康の死が最上家改易の遠因になったことは再三指摘されることではあるが、改易には二代目・家親の夭折、家臣の強訴といった要素が大きいとの意見もある。城主たちの連合からなる最上家臣団が一枚岩ではなく、義光の力を以てしても統制がとれていなかった面も指摘されている。 義光が行った義康の供養は、駒姫のものと同じく大変手厚いものであった。 慶長16年(1611年)3月、従四位下、左近衛少将と出羽守に叙位・任官する。その後、駿府城新築祝いのために駿府に上府したが、この頃から病がちになる。 慶長18年(1613年)、義光は病躯を引きずるようにして江戸に上り秀忠に謁見、さらにその後駿府に赴き家康に謁して最上家の今後を託した。明けて慶長19年(1614年)1月18日未刻、山形城に帰還してまもなく病死した。享年69。葬儀当日、寒河江十兵衛、寒河江肥前守、長岡但馬守、山家河内守の4人の家臣が殉死した。義光の墓所は山形市鉄砲町の光禅寺にある。 義光の死後、後を継いだ家親は元和3年(1617年)に急死した。このため、義光の孫・最上義俊が藩主となったが、後継者をめぐる抗争が勃発し家中不届きであるとして、義光の死からわずか9年後の元和8年(1622年)に改易となった(最上騒動)。義俊の死後はさらに石高を1万石から5000石に減らされ、最上家は大名の座から消えたが、幕府の旗本の高家として明治維新を迎えた。最上家直系の末裔は現在関西地方に在住である。また、四男・山野辺義忠の家系は水戸藩家老として明治維新を迎えている。テレビ時代劇水戸黄門に登場する国家老・山野辺兵庫は、山野辺義忠の子・義堅であり、義光の孫にあたる。 大正13年(1924年)2月11日、宮内庁より正四位を追贈された。昭和52年(1977年)、霞城公園内に「最上義光公勇戦の像」が作られ、平成元年(1989年)12月1日、最上家史料を展示し義光を顕彰する施設として、山形市によって最上義光歴史館が建設された。 義光の戦いの特色として謀略が真っ先に思い浮かべられることが多いが、その裏には合理性と無意味な殺戮の忌避がある。そもそも、家督相続時はFX を支配したに過ぎず力攻めなどできない状態であったため、義光は戦わずして勝つ方法を模索せねばならなかった。敵陣営の分裂や離反を計って戦う前に戦意を喪失させることを得意とし、無駄な損耗を避けていた。敗走した相手を追うことはせず、天童頼久らが逃亡してもこれを黙認している。嫡流を義光に滅ぼされた寒河江氏は、蘆名氏を頼って落ちのびていたが、義光に降った旧臣らの嘆願を受け再興を許されている。 義光は早くから集団戦術・火器に着目しており、酒田港経由で上方より大量の銃器・火薬を入手し、また堺から鉄砲鍛冶を招聘していた。天正2年(1574年)の伊達・上山勢との戦闘や、寒河江城攻略においては集団射撃で敵を破っている。長谷堂城の戦いでも、上杉勢は最上勢の射撃に苦しめられた。最上家には弓500張に対し2,000丁余の鉄砲があった。 義光に降伏や内通する敵が多かったのは、彼の寛大な性格が知れ渡っていたことも大きい。彼は「大将と士卒は扇のようなものであり、要は大将、骨は物頭、総勢は紙だ。どれが欠けていても用は為さないのだから、士卒とは我が子のようなものだ」と語っていたという。彼は有能な人材を見ると配下に加えたいと熱望し、勧誘するのを常とした。その際にはその人物の好みにあわせて、かなりの好条件を提示していた。 義光は力が強く武勇にも優れていた。幼少の頃から背が高く、5,6歳の時には既に12,3歳程度に見え、16の頃には7,8人がかりで動かしたた大石をやすやすと転がしたという。蔵王温泉には、家臣と力比べをしてただ一人持ち上げたという「義光公の力石」が残されている。16歳のとき、父の供をして蔵王温泉へ湯治に行った際、鹿狩りのあと眠りについていたところ、盗賊数十人に襲われた。義光は先頭に立って防戦、二人に重傷を負わせ一人と組み合って刺殺、その際に顔に複数の傷を受けたという。我が子の武勇を賞して父は名刀・笹切を授け、義光はこれを受け取ると感動して言葉もなく涙していたという(羽陽軍記、奥羽永慶軍記に記述あり)。また、最上家に伝わる義光愛用の鉄製の指揮棒は、重量およそ1.8キログラム(刀の約二倍)であり、義光が実戦で使用したとすれば、相当腕力のある人物だったと想像できる。 また、家臣の制止を振り切った義光が単騎突撃を行い、敵の首を取って自陣に引き返してきたのを見た氏家守棟が涙ながらに「そんなつまらぬ首を誰に見せるおつもりか、FX 取引 ならば軽々しい振る舞いは控えられよ」と諫めたため、義光は面目なさげに首を投げ捨てたという話が伝わっている。 義光は、他の奥羽の武将に比べ上方や天下の情勢に精通していた。小田原参陣前に義光が安東愛季に宛てた書状には「遅参を御朱印状で認められている」とあり、彼が事前に豊臣政権中央と交渉していたことがわかる。 義光は自国の民に対して非常に寛容であり、義光存命中は一揆もほとんど起きなかったと云われる。彼の統治下における善政はのちに「最上源五郎は役をばかけぬ」という唄になるほどであった。 こうした義光の政策は、現在に至るまで山形の都市基盤として残っている。山形市の町割り・初市、最上川の水運開発による酒田港の繁栄、庄内平野の開墾による日本屈指の米どころの誕生などである。 義光は絵巻物・屏風・陶器等の美術品の蒐集を好んでおり、山形城下に華やかな桃山文化を伝えた。 義光は『源氏物語』、『伊勢物語』等古典文学に親しんだ。『源氏物語』に関しては、上洛中一花堂乗阿から指導を受け、切紙(免許状)を授けられた。