成実18歳の時、人取橋の戦い後に渋川城に逗留していた折りに、近習が誤って鉄砲の火薬箱の中に火を落としてしまい、城が全焼した。この火事で成実は右の手指が全てくっついてしまうほどの大火傷を負い、生涯そのままだった、との記述が政宗記にある。 政宗との仲は年も近いことから、主従というより兄弟のように良かったようで、政宗から成実に宛てて、「別に用はないけどこの頃逢ってないから手紙を書いた」等と書き送った書状も残されている。 明治維新後、家臣とともに北海道有珠郡に移住してカリン ナラ チーク 無垢フローリング メープル ウォールナット 無垢材 、現在の北海道伊達市の礎を築いた伊達邦成は、亘理伊達氏15代目で伊達成実の子孫。 米沢の成島八幡神社の神職・片倉景長の次男。生母は本沢刑部真直の娘。異父姉は政宗の乳母の喜多(政岡)。叔父に意休斎景親。鬼庭綱元(喜多の異母弟)は義理の兄に当たる。 はじめ伊達政宗の父・輝宗の徒小姓として仕えた。その後、遠藤基信の推挙によって天正3年(1575年)に政宗の近侍となり、軍師として重用されるようになる。 天正13年(1585年)の人取橋の戦いや天正16年(1588年)の郡山合戦、天正17年(1589年)の摺上原の戦い、天正18年(1590年)の小田原参陣、文禄2年(1593年)の朝鮮出兵、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いなど政宗の主要な戦争の大半に参加して、いずれも伊達氏の危難を救っている。また安達郡二本松城在番、信夫郡大森城主、亘理城主などを歴任する。 関ヶ原の後の慶長7年(1602年)、主君・政宗が仙台藩主になると一国一城令が敷かれる中、特例として残された白石城1万3000石の城主となり以後、片倉家は明治まで11代にわたって白石の地を治め続ける。仙台藩での片倉氏の家格は御一家である。 慶長19年(1614年)からの大坂の陣では病床に臥していたため、政宗に従うことができなかった。元和元年(1615年)、病のために死去した。享年59。家督は子の重長(重綱)が継いだ。 嫡男・重長は大坂夏の陣における道明寺の戦いで後藤又兵衛らを討ち取るなど奮戦し、「鬼の小十郎」の異名を取った。さらに重長の子・景長もまた小十郎を名乗り、伊達騒動の渦中にあって幼き主君・綱村を支えた。代々伊達氏に仕えた「片倉小十郎」の名跡は、以後伊達家忠臣の鑑と称された。 伊達家中では「武の伊達成実」と並んで、「智の片倉景綱」と呼ばれた。一説によれば剣術にも長け、幼少期の政宗の剣術指南も務めたと言われるなど高速バス 夜行バス 高速バス 夜行バス を兼ね備えた武将であったと伝えられている。また大変な笛の名手であったとも言われる。 妻が重長を懐妊した際には当時主君・政宗に未だ子がいなかったのを憚り、実子を殺害しようとしたと言われる。 景綱の知才は、時の天下人・豊臣秀吉にも高く評価された。奥州仕置のとき秀吉は景綱を直臣に迎えようとして三春5万石の大名に取り立てようとしたが、このとき景綱は政宗への忠義を選んで辞退している。 死後、景綱の人徳を慕った家臣6名が殉死したと言われている。 政宗が初陣の際、敵兵を深追いし逆に敵兵に囲まれてしまったことがあった。そのとき景綱は「我こそが政宗なり」と進み出て相手を引き付け、政宗の窮地を救ったという。 政宗は幼少期に疱瘡(天然痘)が原因で右眼の視力を失った。しかも病後その患った眼球が眼窩から突出し、その醜い顔貌から政宗は大きな劣等感を抱き無口で暗い性格になってしまった。景綱はそんな政宗の性格を直すために政宗を侍医のいる部屋に引っ張っていき、自ら政宗の頭を抱え込み短刀で一気に眼球を抉り出したという。これ以降、政宗は暗い性格から快活で文武両道に精進する少年に変貌したという。 政宗は書状の中で固有名詞を略す癖があり(田村を「田」、相馬を「相」等)、景綱宛の書状も私的なものは宛名が「かた小」となっている。景綱が家督を息子に譲り、息子が「小十郎」を名乗るようになると政宗からの宛名は「かた備」(片倉備中守の略と思われる)になっている。ちなみに政宗自身の署名も「政」だけのものがある。 慶長5年(1600年)、越後上杉氏が最上氏領内へ侵攻した際の救援作戦にて「すぐに救援には赴かず、両軍入り乱れ、疲労が極みに達した段階で攻め入り、上杉勢を完膚なきまで叩くべし」と進言した。作戦としては合理的であるが、このとき山形城に母・保春院を置いていた政宗は流石にこの作戦を却下したという。 父と同様に英明な武将として知られ、父の死後、その後を継ぎ当主となる。高速バス 格安 高速バス 大阪 高速バス 京都 高速バス 神戸 高速バス 東京 高速バス 関西 夜行バス 格安 夜行バス 大阪 夜行バス 京都 夜行バス 神戸 夜行バス 東京 夜行バス 関西 や蘆名氏に対抗するため、一人娘の愛姫を伊達政宗の妻として嫁がせ、伊達軍の援軍を得ることで独立を保持した。しかし、清顕には愛姫以外に子供ができなかったため、1586年に清顕が没するとその後釜をめぐって争いが起きてしまった。出自その他は田村氏を参照のこと。 大宝寺 義氏(だいほうじ よしうじ、天文20年(1551年) − 天正11年3月6日(1583年4月27日))は、戦国時代の大名。出羽大宝寺氏の当主。大宝寺義増の長男。武藤義氏とも呼ばれ、本庄繁長を通して越後の上杉謙信と縁を結び上杉氏を名乗ったこともある。(山形県史) 大宝寺氏は、一時は越後上杉氏の後ろ盾を背景に、庄内地方に勢力を拡げたものの、永禄十二年(1569年)、義氏が父の後を継いだ頃には、諸豪族の反乱が相次ぎ、また、上杉謙信の死後は同地方に勢力を伸ばしてきた最上義光の侵攻に悩まされていた。 このため、義氏は1574年に最上氏と対抗するために伊達氏と手を結ぼうとしたが、不首尾に終わっている。 1579年、当時の天下人であった織田信長に沖縄旅行 や鷹を献上して誼を通じることで最上氏と対抗しようとした。これにより、義氏は信長から屋形号を許されるほどの栄誉を受けた。しかし信長死後の1583年、最上義光と内通した家臣の東禅寺義長の裏切りに遭って殺されてしまったのである。(なお、この謀反に際しては義氏の一族をはじめ、国人衆の多くが謀反勢力に参加したという。) 義氏は武勇に長けていたが、それをいいことに内政を疎かにし、外征を繰り返し、粗暴な振る舞いが多かったため、『悪屋形』と呼ばれていたとも言われている。だが、一説では権力の強化によって戦国大名化する過程で権力の中枢から排除された羽黒山などの宗教勢力や東禅寺氏ら親最上派勢力による中傷とする見方もある。